菅野 朋子(かんの ともこ)さん
弁護士
宮古島リヒト法律事務所 所長
企業内弁護士、東京の事務所所長を経験
コメンテーター
羽鳥慎一のモーニングショー等 出演
変わってほしくないもの、
変わらなければいけないもの…
昨年9月に宮古島初の女性弁護士事務所「宮古島リヒト法律事務所」をオープンした、菅野 朋子さんを取材してきました。
■宮古島と菅野さんの出会いは?
10年ぐらい前に旅行で来ました。まだ伊良部大橋が出来る前です。南の島が大好きで、沖縄本島には何度か行っていたのですが、沖縄に詳しい友人に宮古島を勧められて来たのがきっかけです。初めて宮古島の海を見た時、「海外でもこんなにきれいな海は無い!」と感動しました。当時はさとうきび畑ばかりでカーナビを使っても目的地にたどり着けませんでした(笑)
来間島の竜宮展望台からの景色は衝撃的で、今でもはっきりと覚えています。この景色を毎日見られたら幸せだろうなって当時から思っていました。後、オジー、オバーって呼び方がすごく素敵だなって思いました。親戚とか親族とかの枠を超えて、みんなのオジー、オバーなんだろうなって温かみを感じました。
■移住のきっかけは?
本気で移住を決意したのはコロナ禍になってからです。
コロナ禍になって多くのホテルが長期プランを売り出したんです。それで長期滞在で宮古島に来るようになって、仕事もリモートワークが多くなったので頻繁に来るようになり、丁度息子の大学卒業も重なって、自分の好きなことをしようと思い移住しました。
正直、息子が大学を卒業したら仕事を半分減らしてのんびりしようかなっとも考えていたんですが、コロナ禍でのんびりしている時に「私はこれでいいのか?誰のためにもなっていないな」って思ったんです。ちゃんと仕事をしていたい自分に気付いたんです。それで宮古島に法律事務所を立ち上げようと決意しました。実際、事務所を開設したら思っていた以上に忙しく、のんびりしている時間が無いです。海でのんびりする時間も欲しいです。
■弁護士を目指したきっかけは?
司法試験を受験したのは子供が生まれてからです。
高校時代にいじめに遭い、大学受験も困難になるほど精神的ダメージを受けました。大学は推薦で進学することができたんですが、ずっと心の中にもやもやしたものがありました。大学卒業と同時に結婚し子供も生まれ、精神的にも落ち着いてきたので、何かをしたいと思い司法試験に挑戦しました。30歳近くになってからの挑戦でした。その時は弁護士になって誰かのためになりたいというような高尚な思いは無く、ただ司法試験に受かりたいって感じでした。子どもを保育園に預けて時間を作り勉強を続け、5度目の受験で合格しました。子どもが小学校3年生の時でした。その間、離婚を経験しました。実家を頼り勉強を続けましたが、だからこそ絶対に受からなきゃいけないって思いました。
合格後は検察官と弁護士のどちらかになろうと思っていましたが、検察官は転勤が多く、子育てしながらは厳しいので弁護士になることを決めました。
■弁護士になっての苦労は?
弁護士になって15年です。ご依頼者から直接感謝をされる仕事なので、そこはやっぱりやり甲斐を感じます。
苦労は多いんですが、その感謝があるからやっていけます。基本的に何も問題が無い方は法律事務所には来ません。トラブルを抱え、自分だけでは解決出来ないから来る訳です。ご依頼者様の気持ちを汲み取ってお話を伺うのはもちろんですが、冷静にきちんと客観的に判断していくことが初めは難しかったです。問題がある、つまりマイナスから始まる仕事なので、ご依頼者さまの負担を減らすには早く解決してゼロの状態にする。そのためには自分自身が常に冷静で適切な判断が出来るようにありたいと思っています。
女性弁護士なので話し易いとよく言われます。実際、夫婦や家族間の問題を相談されることが多いです。事務所をオープンして約8か月になりますが、宮古島で女性の法律事務所をオープンしてくれてありがとうと感謝されるのが嬉しいです。
■これからの宮古島について
宮古島は今土地の高騰で親族間のトラブルが増えています。また、飲酒運手による交通事故も全然減りません。いい意味でのなあなあが宮古島のいい所ではありますが、お酒の席で見知らぬ男性から頭を叩かれたり、身体を触られたりしてびっくりしたこともあります。当たり前にやっていたことが実は犯罪であったり、人の迷惑になることが犯罪に繋がるということは知っていた方がいいと思います。
美しい自然や温かい心、雰囲気はいつまでも変わらず、誰もが安心して暮らせる宮古島であってほしいと思います。
素敵な笑顔の菅野さん、急速に変わりつつある宮古島で必要とされる人になっていくのだろうと思いました。島の女性弁護士として今後の活動が楽しみです。
2024年6月号掲載